MARKET yoridori×生産者たち

No.2

No.2

  • 2016
  • 阿波尾鶏

阿波尾鶏はロマンだ。

– 藤本 武 –阿波尾鶏ってなんだ?

冗談を交えながらわかりやすく阿波尾鶏について説明してくれる藤本さん

 「阿波尾鶏は、地鶏生産量が、日本一です」。
それまでは優しい口調で話していた藤本さんが、声を強めて教えてくれたその姿に、阿波尾鶏にかける想いが垣間見えた。
プールバックを持ったこども達の姿が目立ち始めた7月初旬、閑静な住宅街に突然現れる藤本さんの職場を訪れた。
以前は桜の名所として有名だった同施設は、病気発生予防の為に今は関係者以外の立ち入りを禁止している。
「ここは良質な阿波尾鶏を継続して生産するための重要な施設です」。
藤本さんは研究員として阿波尾鶏の噛み応えや色合いなどの品質管理業務を行っている。

自然に恵まれた環境で阿波尾鶏は育つ

昭和40年代後半、外国産鶏肉の大量輸入で国内養鶏産業が大打撃を受けたことをきっかけに、阿波尾鶏の開発は始まった。
「阿波尾鶏誕生までには、20年近くの歳月がかかっています」。
徳島で古くから飼育していた軍鶏の改良を重ね優良な地鶏を生み出し、その地鶏とホワイトプリマスロック(ブロイラー)を掛け合わせることで阿波尾鶏は生まれた。
「生産は、官民が連携した〔阿波尾鶏ブランド確立対策協議会〕で徹底した管理のもとに行われています。このような事例は全国でもなかなかないんですよ」。
協議会の許可を受けた農場でのみ飼育を許されている阿波尾鶏は、平成13年に全国に先駆けて地鶏JAS認定を受けている。日本一の地鶏と呼ばれる所以がここにある。
「家ではいろんな鶏肉を買ってきて食べ比べをしますよ。妻が鶏料理を作ってくれたらやっぱり意識をしますしね」。
そう言って笑う横顔に、阿波尾鶏への愛情と飽くなき探究心が感じられた。

– 葉田 敬 –美味しいを育てる

odoriプリンを食べるのは久しぶりだという葉田さん

 「僕らが小さい頃は食べるもんなんて全然なかったけど、うちは鶏を飼っていたので鶏と卵はふんだんにあった。友達から羨ましがられて、毎日僕の卵焼きとおかずを交換してましたわ」。
 年齢とそう変わらない年月を鶏と歩んできた葉田敬さんは、昔を思い出しながら優しく笑った。
日に焼けた肌に白いシャツ、細縁の眼鏡に低めのハスキーボイス。最初こそその風貌に緊張していたが、笑うと目が細くなる穏やかな笑顔にすぐに心がほぐれた。
odoriの親子丼やプリンに使われている阿波尾鶏のたまごは、徳島県各地にある養鶏組合で大切に育てられており、葉田さんはそこで顧問を勤めている。孵卵から鶏の飼育過程を厳重に管理している葉田さんには、より良い商品を仕上げることへの、熱い思いがある。

阿波尾鶏の種卵は市場に出回っておらず、odoriは県から試験的に使用が認められている

「とにかく最終的に欠品しないようにすること。阿波尾鶏の生産農家さんたちなど、後の工程に絶対に迷惑をかけんようにすることです」。
事故、病気を防ぐため、そして阿波尾鶏の生産を絶やさないため、日々の検査は徹底している。またできるだけ薬に頼らず、環境の良い場所で少数を飼育することによって鶏のストレスを軽減し、自然体で健康な鶏を育てることを意識しているという。なぜそこまで一貫しているのか。
「これはただの我々のこだわりなんです。目に見えるもんでもないんですけどね」。こちらをまっすぐに見て話す葉田さんの目には、揺らぐことのない信念が感じられた。鶏と長く付き合ってきたからこその飼育に対する誇りと責任感。私たちが口にする阿波尾鶏はこうしたプロフェッショナルのこだわりによってつくられているのだ。

– 丸本 昌男 –阿波尾鶏の父、600人の父として

阿波尾鶏の父、丸本会長

 「私の話はええんや。阿波尾鶏のこと書いてや」。
長いインタビューの最後に、何度も念を押された。冗談を交えた語り口はとても気さくで、社員600名を超える食品会社の会長には見えない。
丸本昌男さんは、株式会社丸本の創業者であり、同時に徳島県が誇る地鶏出荷羽数日本一位のブランド地鶏「阿波尾鶏」の育ての親でもある。阿波尾鶏ブランド確立対策協議会の会長に就任し、異なる意見をまとめ、販売方法を工夫して市場での競争力を高めた。
さぞ豪胆な人物かと思いきや、語られるエピソードからは繊細さと温もりが感じられる。

商品の品質検査は何段階にも分けて行われる

ダンプ運転手をはじめ色々な仕事を経験した後、26才で創業した。父親から借りた10万円と自らの2万円を元手に鳥に携わる商売を始めたのだ。
それから53年、会社は阿波尾鶏のみならず冷凍食品や惣菜などを扱う総合食品メーカーに成長した。
ここまで来られたのは「人との出会い・繋がりを大切にしてきたから」。これだけは永遠に引き継いで行ってもらいたいと常に幹部に話すという。
課題に直面すると布団に入ってからも考え続け、眠れない夜を過ごす。「お客さんといる間は、自分の体はもう自分のものではない。お客さんのもんや」その言葉通り、取引先への気遣いは徹底していると近しい役員も語る。仕事一筋である一方、「家に帰れば7人家族。会社では600人の家族。」と言うように、社員への思いも強く、気遣いを忘れない。
インタビュー中、父親や奥さんとのエピソードに話しが及ぶと、目を閉じてじっくりと、滲み出るような優しい語り口調になる。その姿から垣間見える、苦難を乗り越えてきた歴史と周囲に対する覚悟、責任感、そして深い愛情が今日に結実している。